小判こばんマークがあるものは、世界遺産せかいいさん佐渡島さど金山きんざん」と、それにまつわる場所ばしょです。

きらりうむ佐渡さど

佐渡島さど金山きんざん」の玄関口げんかんぐちとして、資産しさん情報じょうほうだけでなく、現地げんち観光かんこう情報じょうほうはいります。館内かんない展示室てんじしつでは大型おおがた映像えいぞう模型もけいグラフィック等で資産しさん価値かち魅力みりょくをわかりやすく展示てんじしています。「佐渡島さど金山きんざん」をまえあしはこぶことをおすすめします。

道遊どうゆう割戸わりと

佐渡島さど金山きんざん」のシンボルひとふかさ74m、はば30mもりすすめた結果けっかやまぷたつにったような姿すがたになりました。佐渡島さどではもっともおおきな露頭掘ろとうぼりのあとです。

撮影さつえい池田雄彦いけだたけひこ

佐渡奉行所跡さどぶぎょうしょあと復元ふくげん

佐渡島さど金銀きんぎんがとれる重要じゅうよう場所ばしょだったことから、江戸時代えどじだいつうじて徳川幕府とくがわばくふ直接ちょくせつ支配しはいしました。江戸えどから「佐渡奉行さどぶぎょう」が派遣はけんされ、奉行所ぶぎょうしょ鉱山こうざん管理かんり佐渡島さど政治せいじ事務じむおこないました。
江戸時代えどじだい中頃なかごろ(1759年)には、敷地しきちなかに「寄勝場よせせりば」という工場こうじょうもうけられました。きんぎん作業さぎょうを1かしょあつめることで、鉱石こうせきからきん作業さぎょう効率的こうりつてきにできるようにしました。

西三川にしみかわゴールドパーク

佐渡島さど最古さいこ砂金山さきんざんである西三川砂金山にしみかわさきんざんおこなっていた砂金採さきんとりを体験たいけんができる体験型資料館たいけんがたしりょうかん展示室てんじしつ歴史れきしれてから、西三川地区にしみかわちく探索たんさくしてみると、さらにたのしめるでしょう。

西三川砂金山にしみかわさきんざんエリア見学けんがく検討中けんとうちゅうかたへのおねがい」

虎丸山とらまるやま

西三川砂金山にしみかわさきんざん最大さいだい採掘場さいくつじょうで、現在げんざいも「大流おおながし」によってくずされたため露出ろしゅつしたあか山肌やまはだることができます。採掘さいくつ様子ようすえがかれた江戸時代えどじだい絵図えずのこっています。

撮影さつえい西山芳一にしやまほういち

金子勘三郎家かねこかんざぶろうけ

西三川砂金山にしみかわさきんざんで、奉行所ぶぎょうしょから派遣はけんされた役人やくにん集落しゅうらく人々ひとびととの橋渡はしわたしをおこない、村人むらびと鉱山労働者こうざんろうどうしゃ)をりまとめ、「大流おおながし」の作業さぎょう仕切しきった金子家かねこけ住宅じゅうたくです。

北沢浮遊選鉱場きたざわふゆうせんこうば

1940 年代ねんだいきん生産量せいさんりょうやすために つくられた 施設しせつです。 いま屋根やねなどが 撤去てっきょされて 土台どだいだけになっています。ここでは 薬品やくひん使つかって つくった「 あわ」とともに こまかい 金銀粒きんぎんつぶがらせて 回収かいしゅうする 作業さぎょうおこなわれていました。

撮影さつえい西山芳一にしやまほういち

大立竪坑おおだてたてこう

1877( 明治めいじ10) ねん完成かんせいした 洋式ようしき竪坑たてこう垂直すいちょく坑道こうどう)です。 鉱石こうせきひとものうんぱんに 使つかわれ、 もっとふかいところは352mまで たっしています。

鉱石こうせきしは、それまでの 手掘てぼりから 機械きかいやダイナマイトなどを 使つかうようになりました。 鉱石こうせきうんぱんも 鉱車こうしゃ(トロッコ)を 使つかうようになり、 一度いちど大量たいりょう鉱石こうせきはこせるようになりました。

撮影さつえい西山芳一にしやまほういち

大間港おおまこう

1892(明治めいじ25)ねんに、鉱石こうせき石炭せきたんなどの運搬うんぱんのために建設けんせつされました。荷揚にあにはクレーン使つかわれ、鉱石こうせきなどは写真しゃしん中央ちゅうおうトラス橋まで鉱車こうしゃトロッコ)をけて、したにいるふねへと落下らっかさせて運搬うんぱんしました。

撮影さつえい天野尚あまのたかし