世界でも
貴重な
「たからもの」
佐渡金銀山は
長い
期間に
渡って
金や
銀を
産出し、
日本最大の
金銀山として
国内外の
経済に
大きな
影響をあたえました。
そして
今、
世界の
大切な「たからもの」として
守っていくために、
世界遺産の
登録をめざしています。
佐渡金銀山ってどんな所?
日本海に 浮かぶ 島、 佐渡。855km²( 東京23 区の 約1.4 倍)という 日本 第2位の 面積を 持つ 島です。 昔から、 佐渡は 金や 銀がとれる 島として 知られていました。 平安時代から 砂金がとれていた 西三川砂金山、 安土桃山時代に 島で 最大の 銀山だった 鶴子銀山、そして 日本最大の 金銀山である 相川金銀山などがあり、それらをまとめて「 佐渡金銀山」とよんでいます。
佐渡金銀山は、
一つの
島の
中で
長い
間、
金銀が
産出されたことにより、いろいろな
時代の
鉱山の
遺跡や
町並みを
見ることができる
世界でも
貴重な
場所です。
今、
新潟県と
佐渡市は
佐渡金銀山を
人類にとって
大切な
世界の
宝物として
守っていくために、
世界文化遺産の
登録を
目指しています。
西三川砂金山
佐渡の 金の 歴史はこの 山から。 平安時代( 約1000 年前)に 書かれた『 今昔物語集』に、 能登( 現在の 石川県)の 製鉄集団の 親方が 佐渡に 渡り、20 日余りで「1000 両」もの 金を 持ち 帰ったという 記述があります。それがこの 西三川だといわれています。
西三川には 現在でも、 砂金をとった 山や 水路などの 跡がよく 残っており、 江戸時代の 絵巻とほとんど 変わらない 風景を 見ることができます。
鶴子銀山
鶴子銀山には、 日本中からたくさんの 人が 銀を 求めて 集まってきました。 鶴子銀山の 尾根や 沢に600 カ所以上の 採掘の 跡が 確認され 時代の 異なるさまざまな 掘り 方が 確認できます。また、 鉛を 使って 鉱石から 銀を 取り 出す 技術などが 石見銀山( 島根県)からもたらされました。
相川金銀山
相川金銀山は、 江戸時代に 入って 本格的な 開発が 始まりました。 大量に 生産された 金や 銀は、 国のお 金として 利用され、 幕府の 財政を支えました。また、 採掘( 鉱石の 掘り 出し)から 小判製造までが 同じ 地域で 行われていた 鉱山は、 国内でも 佐渡だけであり、その 工程を 鮮やかに 描いた 鉱山絵巻が100 点 以上も 残っています。
近代に 入ると 欧米から 伝わった 世界の 最新技術を 次々と 取り 入れ、 日本を 代表する 近代的な 鉱山に 生まれ 変わりました。これまで 金銀の 回収が 不可能だった 鉱石からも 効率的に 回収できるようになったことにより、 金銀の 生産量は 大幅に 増加しました。
見どころ 紹介
道遊の 割戸
佐渡金銀山のシンボル。 人の 手で 掘り 進めた 結果、 深さ74m、 幅30mにもなり 山を2つに 割ったような 姿になりました。 佐渡ではもっとも 大きな 露頭掘りの 跡です。
佐渡奉行所跡( 復元)
江戸時代から 佐渡を 治めた 奉行が 支配を 行った 場所です。 江戸時代の 中頃(1759 年)からは、 敷地の 中に「 寄勝場」という 工場を 設け、 金や 銀をとり 出す 作業を1 ヶ所に 集めて 仕事の 効率化を 図りました。
北沢浮遊選鉱場
1940 年代に 金の 生産量を 増やす 目的で 作られた 施設です。 今は 屋根などが 撤去されて 土台だけになっています。ここでは 薬品を 使って 作った「 泡」とともに 細かい 金銀粒を 浮き 上がらせて 回収する 作業が 行われていました。
大立竪坑
1877( 明治10) 年に 完成した 洋式の 竪坑( 垂直の 坑道)です。 鉱石や 人、 物の 運ぱんに 使われ、 最も 深いところは352mまで 達しています。
鉱石の 掘り 出しは、それまでの 手掘りから 機械やダイナマイトなどを 使うようになりました。そして、 鉱石の 運ぱんも 鉱車(トロッコ)を 使うようになり、 一度に 大量の 鉱石を 運び 出せるようになりました。
大間港
1892( 明治25) 年に、 鉱石や 石炭などの 運ぱんのために 建設され、 荷揚げにはクレーンが 使われました。 写真中央のトラス 橋では、 鉱車(トロッコ)を 乗り 付けて、 下にいる 船へ 鉱石を落下させました。